スマートフォン

 

 まだ労働者であった頃、俺はよく地下鉄に乗っていた。通勤ラッシュ時は、東京ほどではないがそれなりに人は多い。地下鉄に乗ると何時も目にする光景があった。それは、食い入るようにスマートフォンの画面を見て、一心不乱に指を動かしている連中のことである。ラッシュ時で身動きが取れない状態でも全くお構いなしである。以前、ラッシュ時の地下鉄に乗った時の事、寿司詰状態の車内で俺の横の奴がポケットからスマートフォンを取り出して操作し始めた。しかし、それを俺の顔の真ん前でするのでたまらない。そいつのスマートフォンが俺の鼻に接触しそうな距離なのである。迷惑千万、不愉快極まりない奴である。俺は車内の揺れを利用してそいつのスマートフォンに思いっきり頭突きをしてやった。奴は「あっ!」と言ったものの、何食わぬ顔で今度はスマートフォンを胸の前に持っていき、また一心不乱状態に没入したのである。本当にクソみたいな奴である。しかし、車内を見渡すとはほぼ全員がスマートフォンに夢中になっている。その光景は、狂気に支配された異常な世界としか思えなかったのである。

 現在、日本における携帯電話等の契約件数は2憶3700万台だそうだ(このデータはちょっと古いかもしれない)。日本の総人口が1億2600万人なので、その普及率は187.9パーセントになると総務省が発表している。驚異的な数である。かつて携帯電話やPHSが普及し始めた頃、何時でも何処でも電話がかけられるということは、大変な驚きでその便利さに感動したものである。しかし、今ではそれがスマートフォンになり、パソコンをポケットに入れて持ち運べるようになり、電子決済から自宅の家電製品の遠隔操作まで出来るようになっている。だが、そのスマートフォンもそろそろ終焉を迎えるらしい。これからは、ARやVRといった機能が搭載された新たなものが出現するそうだ。何だかよくわからないが、それらは日常生活をする上で何の役に立つのか、俺にはさっぱり理解できないのである。

 しかし、俺はこのスマホ野郎達を見ていると何時も思うことがある。それは、スマートフォンを落として失くしたり故障した場合、一体どうするのかということである。奴等は、「スマホ一台で何でもできて便利だ、便利だ。」と言っているが、逆にそのスマホを失くしたり故障して動かなくなったら、何もできなくなるのではないか。電話ができない、SNSが使えない、メールを送ることができないはもとより、買い物ができない、電車やバスに乗ることができない、家に入ることができない、電気がつかない、ご飯が食べられない、風呂に入ることができない、車のエンジンがかからないなど、日常生活が何一つできなくなるのではないか。

 人々は、スマートフォンに生活の利便性を追求し過ぎた故に、そのしっぺ返しが想像以上に大きいことに気付いていない。仮想現実でスマートフォンに色々な事をさせるのは何の問題もないのだろうが、現実世界にそれを持ち込み、それに頼ってしまうと思わぬ大きな落とし穴に落ちてしまうことを知らないのである。近い将来、我々の生活はスマートフォンを通してAIで詳細に管理されることになるらしいが、それが突き進むと正に映画「マトリックス」の世界である。何だかゾッとする。

 スマートフォンは確かに我々の生活を便利にした。しかし、日常の営みをそれに任せっきりになってしまうと、近い将来、とても大きな付けが回ってくるのではないかと危惧する。そして、それは想像を絶する災禍となって我々の人格や精神さえも破壊してしまうような気がする。やはり機械は人間が支配しなくてはいけない。機械に支配されてはいけないのである。俺は白黒はっきりさせる事は好むが、一かゼロかのデジタル的思考は嫌いである。日々の生活は、時の流れるままに身を任せたいと思っている。俺は、「やっぱりこれじゃないとね。」と言いながら、悠然とレコード盤の上にシュアダイヤモンド針を落とし、真空管アンプを通してJBL4343で六十年代のモダーンジャズを聴き入るといった、超アナログ的な(超昭和的なと言った方がいいか)生活をしたいのである。