定年退職者のぐうたライフ

定年退職

 俺は60歳で定年退職した。再雇用で65歳位までは同じ職場で働くことも出来たが、定年退職を決断したのである。はっきり言って労働に対する意欲が無くなったのである。しかしながら、その意に反して職種も身分も全く異なる職場へ再就職してしまった。

 定年退職したら何が変わるのだろうかと少しは心配もしたが、何も変わることはなかった。再就職した職場へは、前と同じ電車で出勤し前と同じ電車で帰宅する。生活も以前と全く変化することなく拍子抜けしてしまった。しかし、収入は劇的に減った。年収は現役時代のほぼ三分の一である。やはり、これについては定年退職という現実を突き付けられたのである。

 俺は、定年を前にいわゆる「定年もの」といわれる本を読んでみた。しかし、どれもパーンと膝を叩く様な明快さに欠け、腑に落ちるものは何一つ無かった。どの本も定年前の準備として、やれあれをやれこれをしろと押しつけがましく書いてある。実際に本に書いてある事をやろうとしても、物凄く面倒臭くて全くやる気が起こらなかったのである。まあ、所詮は他人の考えで俺の考えではない。俺は、「そんな事、いちいち出来るわけないやろが!」と文句を言いつつ、本は全てゴミ箱の中へ放り込まれた。そして、ずるずると定年を迎えたというわけである。

 定年退職した今、ふとある不安が脳裏をかすめる。それは、これから先も俺は馬齢を重ね、最後には干からびた老人になってしまうのではないかというものである。一抹の不安ではあるが、何だかとても現実味のある不安なのである。

 定年ものの本には、定年後の不安は「健康」「お金」「生きがい」だと書いてある。確かにそうだと思うが、だからどうしろというのか。件の本には、その解消法を色々と実例を挙げ書いてあったが、俺にとっては「何をいまさら。」と諦めの方が先に立つ。だから、話が全く前に進まない。俺は、「健康」には気を付けているつもりである。しかし、いつ何時病気になるか分からないといった不安が常に付きまとっている。だから、健康診断を受けて病気だと言われるのが嫌で、人間ドックを受けるのをやめてしまった。「お金」については本当にどうしようもない。定年前のような収入は望めず、年金も「えっ、たったのこれだけ。」と驚愕する位の額である。しかし、その限られた収入で生活しなくてはならない。巷では、老後の資産形成などと吹聴されているが、俺にはその資産が無いので話にならない。定年後の「お金」は、減りこそすれ増えることはないのである。「生きがい」については、人それぞれで千差万別である。何か「生きがい」をもって定年後を過ごしている人は素晴らしいとは思うが、俺は「生きがい」を見つけ出す方法をいまだに知らない。人から「生きがいは何ですか。」と問われたら、「無い。」としか答えようがないのである。だから、俺は定年後の不安を何一つ解消できないのである。やはり、俺は馬齢を重ね干からびた老人となって最後は朽ち果ててしまうということなのであろうか。どうしようもない糞ジジイである。

「定年後は、目的をもって生活している人ほど生き生きして輝いている。」とものの本にはよく書いてある。だが、そのような人は少数派である。俺の知る限りの定年退職者は(無職は別として)、職場は変われど定年前と何ら変わらない日々を送っており、文句や愚痴も現役時代と変わりなく噴出している。趣味や生きがいを昇華させ生業とした者など俺の周りには何処を探してもいない。俺を含め彼等は、何も変わらない日々を粛々と生きており、そして歳を重ねているのである。

 定年とは、人生の節目ではある。しかし、若いころの進学や就職や転職といった人生の節目とは、その意味合いが違う。定年とは、いつ来るか判からない人生の終焉に向かって生きていくことの覚悟が求められる節目である。進学や就職や転職は、将来に向けての希望や期待がある。しかし、人生の終焉に向かっての節目である定年には、何処にその様な希望や期待などあろうか。ただ一日一日を何事もなく過ごすことが出来ればそれで十分である。この歳になって「目的をもって生きる」など面倒臭くてとても出来ないし、そんな目的は持たない方がかえって気楽でいい。その方が、精神的にも経済的にもリスクが少なく、ストレスもたまらない。やはり、何も考えずに「徒然なるままに日暮し」が一番いいという結論に達したのである。のんべんだらりと「何もしないぐうたらな日々」を過ごし馬齢を重ねていく事も、ある意味、定年後の人生だと思うに至り、周囲からの手厳しい批判を受けつつも、再就職した職場もあっさりと辞めてしまったのである。