憧れの職業

 朝起きて、仕事に行く必要が無くなり、毎日余裕をかましている。もともと、労働に対する意欲が無く、自分がこれ程非生産的な人間だったとは思いもしなかった。しかし、無職ということは労働対価が全く無くなるということである。問題はどうやって食っていくかなのだが、やはり少ない年金に頼るしかないのである。当たり前の話である。「年金だけでも暮らせます」という本があったが、年金だけで暮らすには節約しかないということらしい。至極当然である。

家内は、「仕事は続けろ。」と喧しく言うが、全く聞く耳を持たない。無収入になっても何とか食っている。案外、生きていけそうなのである。そうなってしまうと今度は死ぬまでボーッとしていたいという衝動に駆られてしまう。人からは、「やりがいのある仕事を見つけろ。」と言われるが、そんなことをする気は毛頭ないし、はっきり言っていらん世話である。俺は好きなようにしたいのである。つまり、俺は好きな時に起きて好きな時に寝る、好きな時に飯を食って好きな時に糞をする。何かしたいときにしか動かないという生活がしたいのである。「死ぬまでボーッと」は、今の俺にとっては信念であるし、憧れていたライフスタイルでもある。それが、やっと実現したのである。

 憧れといえば、子供の頃、大人になったら何になりたいかと聞かれた時、俺はバスの運転手とよく答えていた。他の子はパイロットだの野球選手だの言っていたが、俺はバスの運転手だった。両親は、さぞかし夢のない子だと思ったかもしれないが、俺はバスの運転手になりたかったのである。バスの運転手は俺の憧れの職業であった。定年退職前に、俺は大型二種免許を取った。職場でその免許が必要であったかというと、その必要は全くなかった。しかし、子供の頃の夢を少しでも掴んでみたいと思ったので、必要もない無駄な免許を取ったのである。その頃の俺は、日々の生活や仕事に振り回されて身動きが取れず、子供の頃の憧れを実現させるなど到底出来なかったので、せめて少しでもその夢を掴みたいと思い免許を取得したのである。

 今、バスの運転手は常時募集している。だから、応募すれば即採用となるだろう。子供の頃の夢を実現するチャンスかもしれない。しかし、バス運転手は安月給でしかも超ハードワークだと聞く。「死ぬまでボーッと」を標榜し実践している俺には、そんな仕事が務まるはずがない。はなから諦めている。夢を実現したいとは、思うだけで行動に移すということは全くしないのでる。つまり、そこには「夢無し・やる気無し・金無し」の鄙びたジジイが、何もせずにボーッとしているだけなのである。

 子供達の将来の自分像というものは、夢や希望に満ちていてとても羨ましい。インターネットのあるサイトに、将来なりたい職業ランキングというのが載っていた。その中で小学生男子のなりたいランキングの一位が野球選手、二位がサッカー選手だそうだ。そりゃそうだろう、男の子にとっては憧れの的である。三位は警察官だそうだ。白バイや刑事に憧れるのであろう。四位は何と電車・バス・車の運転手ということである。俺の子供の頃になりたかった職業が、なんと第四位に入っているのである。俺もまんざら捨てたものではないと妙な自信を持ちながらも、屍一歩手前の俺にとっては、「バスの運転手」というものが、もはや手の届かない光り輝く職業として眩しく映るだけなのである。