面倒くさい

 

 最近、全てが面倒くさい。何をやるにしても面倒くさい。面倒くさくて殆ど何もしない。飯を食うのも面倒くさくなる始末である。この前、何時ものように朝から家のソファーでボーッとしていた。家内は仕事で家にはいない。俺独りである。暫くボーッとしていたら家内が仕事から帰ってきた。既に夕方になっていたのである。一日、何をしたのか全く記憶にない。昼飯を食べた記憶がない。記憶がないということは食べてないのかもしれない。一体、一日中何をしていたのだろう。唯一記憶にあるのは糞をしたことだけだ。便秘気味で排便日記なるものを毎日つけているので記憶にあるのである。たまげた。

 「面倒くさい」とは、煩わしい、大変厄介という意味であるが、面倒とは元々「褒める」「感謝する」という意味があるそうである。「褒める」とか「感謝する」ということは、人と人の心の触れ合いである。それが「臭く」なるので、人との交流が嫌になるという事になるのだろうか。それだと何だか腑に落ちるし、合点が行く。俺は元来、人と交わるのが嫌いだ。俺は、定年退職して煩わしい人間関係から解放された。再就職した職場も人間関係の構築など全くしなかった。というよりも、あえてこちらから交わろうとしなかったのである。今は仕事上での人間関係は全て無くなり、とても爽快な気分である。人との交わりほど煩わしく厄介なものはない。特に仕事上の人間関係など「面倒臭い」の極致である。

 人との交わりが性分に合わないということは、社会性がないという事なのか。それだったら、社会との接続を断つという事も選択肢の一つである。定年ものの本には、定年退職後は社会との繋がりをもって生きましょうとか、趣味を生かして地域社会との交流を密にしましょうとか、人との触れ合いが生きがいを生むもので、そうしないと何もない孤独な定年後が待っていますよなどと喧伝している。しかし、俺はそんな事をするのは面倒臭くて全くする気がないし、真っ平ごめんである。定年後の生き方なんて人其々である。「何もしない定年後」を良しとする人がいても当然だし、大いに結構なことだと思う。そもそも、定年後の生きがいというものは、その人の価値観から決まるもので、他人から押し付けられるものではない。

 ディズニーアニメの「くまのプーさん」で、クリストファー・ロビンがプーに「何もしないをしてくれる。」と言って100エーカーの森を去ったシーンがあった。そして、プーは何もしないをした。この「何もしないをする」こそが、俺にとっての定年後の生き方の様な気がする。何もしないで自分に一番最良なものを見つけるのである。 “Doing Nothing” うーん、英語でも何となく響きがいい。

 「世捨て人」という人がいる。浮世を捨て、世間との交流を断った人で俗世間を離れて生きている人である。隠遁者ともいうらしいが、僧侶のような人をいうみたいだ。しかし、僧侶もその世界でのコミュニティーがあり人間関係もあるだろうし、檀家とも付き合わなければ飯が食えない。だが、社会的風潮や俗世間の流れに流されないアイデンティティを持っていなければ、己の宗教の教えに背き、外道となってしまう。俺は、何の宗教にも帰依していないが、僧侶の様な人間を「世捨て人」というのであれば、定年後の生活は「世捨て人」が一番俺の性分に合っているように思うし、これに“Doing Nothing”を加味すれば俺の思い通りの定年後である。

 今は仕事も全て辞め、就労人生は終了した。ということは、いよいよ「世捨て人」の本領を発揮する時と俺は考えている。満を持して「世捨て人」の登場である。不必要な人間とは決して交わることをせず、世間との距離を保ちながらも孤立しない生活を固持する。他人の意見には絶対に左右されず、自分の好きなように「何もしないをする」のである。