オートバイ

 自宅の近くに床屋がある。だから、髪が伸びると当然そこに行く。その床屋の主人は、俺と同世代で趣味が俺とよく似ている。先日、散髪に行った時の事である。床屋の主人とオートバイの話になった。しかし、話のネタとなるオートバイが40年以上も前の物ばかりで、最新型のオートバイの話は全く出てこない。至極当然のことで、俺も床屋の主人も今のオートバイ事情など全く知らないからである。「何だか古臭い話だなあ。」とお互い笑いながら話していたが、とても楽しい時間であった。(オートバイという言い方も実に古臭い)

 大学時代、俺の生活の大部分がオートバイと伴にあった。何処に行くにもオートバイで出かけたし、通学も当然オートバイであった。バイトも「バイク便」なるオートバイを使ったバイトをしていた。モーターサイクリストという月刊誌にオーナーレポートみたいな原稿を投稿して掲載されたこともあった。

   大学での授業が終わるとすぐさま行きつけのバイク屋に行った。そこはバイク野郎の溜まり場となっていたが、その中に悲劇の男がいた。当時、国内では排気量750cc未満のオートバイしか販売されておらず、それ以上のオートバイは全て輸入車であった。この悲劇の男は、排気量1062ccのホンダCB1100R(通称イレブンアールといった)という輸出専用のオートバイをわざわざ逆輸入して購入した。当時、200万円以上(今は中古車市場で700~800万円位するそうだ)したそうである。奴は通関手続きを済ませて横浜から意気揚々とピカピカのイレブンアールを軽トラに積んでバイク屋にやって来た。新車登録をしなくてはならないが、やはりモノがあれば早く乗りたくなるのが心情である。他のオートバイのナンバーを付けて、早速エンジンを始動した。駿馬の雄叫びの如くそのエキゾーストノートは小気味よく吠えた。奴は慣らし運転もせずに、いきなりバイク屋の前の道をフルスロットルで駆っ飛んで行った。しかし、500メーター位走ったところで、中央分離帯に乗り上げ信号柱に激突してしまったのである。哀れにもイレブンアールのフレームはひん曲がり全損状態となってしまった。俺達は一目散に軽トラで駆けつけ、ぐしゃぐしゃになったイレブンアールだけを積みバイク屋へと戻った。奴は、とぼとぼと歩いて戻ってきたが、不思議に怪我一つしていなかった。イレブンアールはエンジンだけが形を留めていた。奴はそれを見て、「イレブンアールと形がよく似たCB750Fにそのエンジンが乗らないか。」と呟いたのである。しかし、マウントの位置が全く違っていて、あえなくその浅はかな考えは水泡に帰したのである。かくして、全走行距離500メーターのHONDA CB1100Rは、渋い黒色のエンジンだけを残し、赤白のフルカウリングに包まれたその雄姿は写真のみが伝えるだけとなったのである。

   そういったバイク野郎が集まるバイク屋には、自然発生的にツーリングチーム(サーキットでのレースにも参加していた)が存在した。モーターサイクリストにも紹介されたこともあるツーリングチームで、俺もそこに名を連ねていた。しかし、ここのツーリングが尋常ではなかった。奥多摩有料道路や箱根七曲などにバイク数十台で行くのだが、馬鹿じゃないのと思うぐらいのオーバースピードで駆っ飛んで行くのである。常磐自動車道では全車オーバー200キロで走った。そんな出鱈目なツーリングである。毎回、転倒する者が出て、バイクは全損、本人は怪我で入院といった事態が必ず起こるのである。今思うと本当に無茶苦茶な事を何の躊躇いもなくしていたものだと驚愕するばかりである。

 数年前に、知人から古いホンダの750ccオートバイを譲り受けた。輸出専用車で国内販売が僅か750台位しかないレア物のオートバイであった。俺は久々のオートバイで気分も高揚し、ライダージャケットやブーツも購入して意気揚々と跨ったのである。しかし、どうも昔のように使いこなせない。特に、思ったように止まることが出来ないのである。何回も車とぶつかりそうになった。やはり加齢による運動能力の低下からくるものであろうか、身の危険を感じた俺は止む無くオートバイを降りる決心をしたのであった。

 大学時代のオートバイ生活を思い出すと本当に懐かしく楽しい。春風を受けて走る爽快感は至上の幸福感に包まれたし、膝パッドを擦りながらハングオンという姿勢でコーナーを攻める時の感覚は射精にも匹敵する快感であった。しかし、その快感を再び味わいたいという欲望に駆られるも気力も体力も若い頃の半分以下になっている現在の俺は、気持ちだけが空回りするただのジジイなのである。

 「昔はよかったなあ。」

と床屋の主人が放った一言に、俺は完全に同意してしまったのである。

いけ好かない奴

 職場で朝の始業前の事であった。俺は仲のいい同僚とあるスポーツの話をしていた。そこに奴が出勤してきた。奴は俺達の話をちょっと聞くや否やいきなり話に割り込んできたのである。その割り込み方が実に気にくわない。奴は、「それは違うな。」と俺達の会話を引き裂くように言い放ち、尋ねもしないのに自分の意見を主張し始めたのである。せっかく二人で気持ちよく話していたのに突然の横やりで、俺は胸糞が悪くなったので同僚には悪かったが話すのを止めた。しかし、奴は何食わぬ顔で自分の浅薄な考えを延々と同僚に話しているのである。あまりにもくどくどと御託を並べるので俺はついに、「本当にそれをやったことがあるのか。それじゃここで実際にやって見せてくれ。」と言ったところ、今は出来ないと逃げの姿勢に入ったのである。このタイプに見られる典型的なパターンである。自分の化けの皮が剝がれそうになると、途端に逃げの体制に入るのである。俺は徹底的にたたみ込んでやろうかと思ったが始業時間が来てしまったので出来なかった。本当にいけ好かない奴である。  

 小学生の頃、こんな奴がいた。奴は東京からの転校生で、父親は何処かの省庁のお偉いさんだったと思う。奴は学校での成績が良いというわけでもなく運動が出来るというわけでもなかったが、父親の職業を鼻に掛けて色々と威張り散らし、自分は凄いと自慢するのである。正にいけ好かない奴の典型で、俺は奴が大嫌いであった。

 ある日、郊外授業で海に行った時の事である。俺は小学生の頃、ある離島に住んでいたので小学校も海に近かった。当然、そこにいる小学生達は海に囲まれた自然の中で育っているので、泳ぎは皆上手かった。郊外授業の内容は泳ぎに関するものではなかったが、夏休みも近く暑かったので、先生は、「よし、今日は暑いので男子は泳いでもいいぞ。」と言ったのである。男子達は皆大喜びで裸になり防波堤から次々に海に飛び込んでいった。今では考えられない事であるが、当時はそれが普通であった。俺達は沖(沖といっても防波堤から百メーター位の距離である)のブイまで競争したのだが、そこには東京から転校してきた奴の姿はなかった。奴は俺達によく、「俺は五十メートルを〇〇秒で泳げる。凄いだろう。」と言っていたので、てっきり一緒に泳いできたと思ったが、奴は防波堤の上で女子達に紛れて隠れるように立っていた。俺達は早く海に飛び込めと促したのであるが、全く飛び込もうとしない。何人かが防波堤に戻り奴を海に突き落とそうとした時、先生が慌ててそれを制止した。奴は恐怖のあまり大声で泣きじゃくり、その声は沖にいる俺達にも聞こえた。もうお分かりだと思うが、奴は金槌であったという落ちである。しかし、話はここで終わらない。この後、奴にとっては地獄のような日々が始まったのである。何故ならば、当然の如く俺達に相当いじめられたからである。そうして、俺達にいじめられてぼろぼろになった奴は、また東京に戻って行った。

 いけ好かない奴は大抵が偉そうにしている。しかし、そんな奴の化けの皮が剝がされた時は、本当に惨めである。俺は、今までこんな奴を結構見てきた。東京から来た奴は、俺が見たいけ好かない奴の最初であったが、その化けの皮が剥がされた時の惨めさとその後の地獄のような日々は、俺の心に強烈な印象となって焼き付いたのである。その時俺は、こんな奴には絶対になりたくないと思ったし、こんな惨めな思いは絶対にしないようにしようと心に誓ったのでる。ある意味、奴は俺の人生において、生きて行く行動の指針を一つ与えてくれた恩人なのかもしれない。

憧れの職業

 朝起きて、仕事に行く必要が無くなり、毎日余裕をかましている。もともと、労働に対する意欲が無く、自分がこれ程非生産的な人間だったとは思いもしなかった。しかし、無職ということは労働対価が全く無くなるということである。問題はどうやって食っていくかなのだが、やはり少ない年金に頼るしかないのである。当たり前の話である。「年金だけでも暮らせます」という本があったが、年金だけで暮らすには節約しかないということらしい。至極当然である。

家内は、「仕事は続けろ。」と喧しく言うが、全く聞く耳を持たない。無収入になっても何とか食っている。案外、生きていけそうなのである。そうなってしまうと今度は死ぬまでボーッとしていたいという衝動に駆られてしまう。人からは、「やりがいのある仕事を見つけろ。」と言われるが、そんなことをする気は毛頭ないし、はっきり言っていらん世話である。俺は好きなようにしたいのである。つまり、俺は好きな時に起きて好きな時に寝る、好きな時に飯を食って好きな時に糞をする。何かしたいときにしか動かないという生活がしたいのである。「死ぬまでボーッと」は、今の俺にとっては信念であるし、憧れていたライフスタイルでもある。それが、やっと実現したのである。

 憧れといえば、子供の頃、大人になったら何になりたいかと聞かれた時、俺はバスの運転手とよく答えていた。他の子はパイロットだの野球選手だの言っていたが、俺はバスの運転手だった。両親は、さぞかし夢のない子だと思ったかもしれないが、俺はバスの運転手になりたかったのである。バスの運転手は俺の憧れの職業であった。定年退職前に、俺は大型二種免許を取った。職場でその免許が必要であったかというと、その必要は全くなかった。しかし、子供の頃の夢を少しでも掴んでみたいと思ったので、必要もない無駄な免許を取ったのである。その頃の俺は、日々の生活や仕事に振り回されて身動きが取れず、子供の頃の憧れを実現させるなど到底出来なかったので、せめて少しでもその夢を掴みたいと思い免許を取得したのである。

 今、バスの運転手は常時募集している。だから、応募すれば即採用となるだろう。子供の頃の夢を実現するチャンスかもしれない。しかし、バス運転手は安月給でしかも超ハードワークだと聞く。「死ぬまでボーッと」を標榜し実践している俺には、そんな仕事が務まるはずがない。はなから諦めている。夢を実現したいとは、思うだけで行動に移すということは全くしないのでる。つまり、そこには「夢無し・やる気無し・金無し」の鄙びたジジイが、何もせずにボーッとしているだけなのである。

 子供達の将来の自分像というものは、夢や希望に満ちていてとても羨ましい。インターネットのあるサイトに、将来なりたい職業ランキングというのが載っていた。その中で小学生男子のなりたいランキングの一位が野球選手、二位がサッカー選手だそうだ。そりゃそうだろう、男の子にとっては憧れの的である。三位は警察官だそうだ。白バイや刑事に憧れるのであろう。四位は何と電車・バス・車の運転手ということである。俺の子供の頃になりたかった職業が、なんと第四位に入っているのである。俺もまんざら捨てたものではないと妙な自信を持ちながらも、屍一歩手前の俺にとっては、「バスの運転手」というものが、もはや手の届かない光り輝く職業として眩しく映るだけなのである。

面倒くさい

 

 最近、全てが面倒くさい。何をやるにしても面倒くさい。面倒くさくて殆ど何もしない。飯を食うのも面倒くさくなる始末である。この前、何時ものように朝から家のソファーでボーッとしていた。家内は仕事で家にはいない。俺独りである。暫くボーッとしていたら家内が仕事から帰ってきた。既に夕方になっていたのである。一日、何をしたのか全く記憶にない。昼飯を食べた記憶がない。記憶がないということは食べてないのかもしれない。一体、一日中何をしていたのだろう。唯一記憶にあるのは糞をしたことだけだ。便秘気味で排便日記なるものを毎日つけているので記憶にあるのである。たまげた。

 「面倒くさい」とは、煩わしい、大変厄介という意味であるが、面倒とは元々「褒める」「感謝する」という意味があるそうである。「褒める」とか「感謝する」ということは、人と人の心の触れ合いである。それが「臭く」なるので、人との交流が嫌になるという事になるのだろうか。それだと何だか腑に落ちるし、合点が行く。俺は元来、人と交わるのが嫌いだ。俺は、定年退職して煩わしい人間関係から解放された。再就職した職場も人間関係の構築など全くしなかった。というよりも、あえてこちらから交わろうとしなかったのである。今は仕事上での人間関係は全て無くなり、とても爽快な気分である。人との交わりほど煩わしく厄介なものはない。特に仕事上の人間関係など「面倒臭い」の極致である。

 人との交わりが性分に合わないということは、社会性がないという事なのか。それだったら、社会との接続を断つという事も選択肢の一つである。定年ものの本には、定年退職後は社会との繋がりをもって生きましょうとか、趣味を生かして地域社会との交流を密にしましょうとか、人との触れ合いが生きがいを生むもので、そうしないと何もない孤独な定年後が待っていますよなどと喧伝している。しかし、俺はそんな事をするのは面倒臭くて全くする気がないし、真っ平ごめんである。定年後の生き方なんて人其々である。「何もしない定年後」を良しとする人がいても当然だし、大いに結構なことだと思う。そもそも、定年後の生きがいというものは、その人の価値観から決まるもので、他人から押し付けられるものではない。

 ディズニーアニメの「くまのプーさん」で、クリストファー・ロビンがプーに「何もしないをしてくれる。」と言って100エーカーの森を去ったシーンがあった。そして、プーは何もしないをした。この「何もしないをする」こそが、俺にとっての定年後の生き方の様な気がする。何もしないで自分に一番最良なものを見つけるのである。 “Doing Nothing” うーん、英語でも何となく響きがいい。

 「世捨て人」という人がいる。浮世を捨て、世間との交流を断った人で俗世間を離れて生きている人である。隠遁者ともいうらしいが、僧侶のような人をいうみたいだ。しかし、僧侶もその世界でのコミュニティーがあり人間関係もあるだろうし、檀家とも付き合わなければ飯が食えない。だが、社会的風潮や俗世間の流れに流されないアイデンティティを持っていなければ、己の宗教の教えに背き、外道となってしまう。俺は、何の宗教にも帰依していないが、僧侶の様な人間を「世捨て人」というのであれば、定年後の生活は「世捨て人」が一番俺の性分に合っているように思うし、これに“Doing Nothing”を加味すれば俺の思い通りの定年後である。

 今は仕事も全て辞め、就労人生は終了した。ということは、いよいよ「世捨て人」の本領を発揮する時と俺は考えている。満を持して「世捨て人」の登場である。不必要な人間とは決して交わることをせず、世間との距離を保ちながらも孤立しない生活を固持する。他人の意見には絶対に左右されず、自分の好きなように「何もしないをする」のである。

スマートフォン

 

 まだ労働者であった頃、俺はよく地下鉄に乗っていた。通勤ラッシュ時は、東京ほどではないがそれなりに人は多い。地下鉄に乗ると何時も目にする光景があった。それは、食い入るようにスマートフォンの画面を見て、一心不乱に指を動かしている連中のことである。ラッシュ時で身動きが取れない状態でも全くお構いなしである。以前、ラッシュ時の地下鉄に乗った時の事、寿司詰状態の車内で俺の横の奴がポケットからスマートフォンを取り出して操作し始めた。しかし、それを俺の顔の真ん前でするのでたまらない。そいつのスマートフォンが俺の鼻に接触しそうな距離なのである。迷惑千万、不愉快極まりない奴である。俺は車内の揺れを利用してそいつのスマートフォンに思いっきり頭突きをしてやった。奴は「あっ!」と言ったものの、何食わぬ顔で今度はスマートフォンを胸の前に持っていき、また一心不乱状態に没入したのである。本当にクソみたいな奴である。しかし、車内を見渡すとはほぼ全員がスマートフォンに夢中になっている。その光景は、狂気に支配された異常な世界としか思えなかったのである。

 現在、日本における携帯電話等の契約件数は2憶3700万台だそうだ(このデータはちょっと古いかもしれない)。日本の総人口が1億2600万人なので、その普及率は187.9パーセントになると総務省が発表している。驚異的な数である。かつて携帯電話やPHSが普及し始めた頃、何時でも何処でも電話がかけられるということは、大変な驚きでその便利さに感動したものである。しかし、今ではそれがスマートフォンになり、パソコンをポケットに入れて持ち運べるようになり、電子決済から自宅の家電製品の遠隔操作まで出来るようになっている。だが、そのスマートフォンもそろそろ終焉を迎えるらしい。これからは、ARやVRといった機能が搭載された新たなものが出現するそうだ。何だかよくわからないが、それらは日常生活をする上で何の役に立つのか、俺にはさっぱり理解できないのである。

 しかし、俺はこのスマホ野郎達を見ていると何時も思うことがある。それは、スマートフォンを落として失くしたり故障した場合、一体どうするのかということである。奴等は、「スマホ一台で何でもできて便利だ、便利だ。」と言っているが、逆にそのスマホを失くしたり故障して動かなくなったら、何もできなくなるのではないか。電話ができない、SNSが使えない、メールを送ることができないはもとより、買い物ができない、電車やバスに乗ることができない、家に入ることができない、電気がつかない、ご飯が食べられない、風呂に入ることができない、車のエンジンがかからないなど、日常生活が何一つできなくなるのではないか。

 人々は、スマートフォンに生活の利便性を追求し過ぎた故に、そのしっぺ返しが想像以上に大きいことに気付いていない。仮想現実でスマートフォンに色々な事をさせるのは何の問題もないのだろうが、現実世界にそれを持ち込み、それに頼ってしまうと思わぬ大きな落とし穴に落ちてしまうことを知らないのである。近い将来、我々の生活はスマートフォンを通してAIで詳細に管理されることになるらしいが、それが突き進むと正に映画「マトリックス」の世界である。何だかゾッとする。

 スマートフォンは確かに我々の生活を便利にした。しかし、日常の営みをそれに任せっきりになってしまうと、近い将来、とても大きな付けが回ってくるのではないかと危惧する。そして、それは想像を絶する災禍となって我々の人格や精神さえも破壊してしまうような気がする。やはり機械は人間が支配しなくてはいけない。機械に支配されてはいけないのである。俺は白黒はっきりさせる事は好むが、一かゼロかのデジタル的思考は嫌いである。日々の生活は、時の流れるままに身を任せたいと思っている。俺は、「やっぱりこれじゃないとね。」と言いながら、悠然とレコード盤の上にシュアダイヤモンド針を落とし、真空管アンプを通してJBL4343で六十年代のモダーンジャズを聴き入るといった、超アナログ的な(超昭和的なと言った方がいいか)生活をしたいのである。

定年退職者のぐうたライフ

定年退職

 俺は60歳で定年退職した。再雇用で65歳位までは同じ職場で働くことも出来たが、定年退職を決断したのである。はっきり言って労働に対する意欲が無くなったのである。しかしながら、その意に反して職種も身分も全く異なる職場へ再就職してしまった。

 定年退職したら何が変わるのだろうかと少しは心配もしたが、何も変わることはなかった。再就職した職場へは、前と同じ電車で出勤し前と同じ電車で帰宅する。生活も以前と全く変化することなく拍子抜けしてしまった。しかし、収入は劇的に減った。年収は現役時代のほぼ三分の一である。やはり、これについては定年退職という現実を突き付けられたのである。

 俺は、定年を前にいわゆる「定年もの」といわれる本を読んでみた。しかし、どれもパーンと膝を叩く様な明快さに欠け、腑に落ちるものは何一つ無かった。どの本も定年前の準備として、やれあれをやれこれをしろと押しつけがましく書いてある。実際に本に書いてある事をやろうとしても、物凄く面倒臭くて全くやる気が起こらなかったのである。まあ、所詮は他人の考えで俺の考えではない。俺は、「そんな事、いちいち出来るわけないやろが!」と文句を言いつつ、本は全てゴミ箱の中へ放り込まれた。そして、ずるずると定年を迎えたというわけである。

 定年退職した今、ふとある不安が脳裏をかすめる。それは、これから先も俺は馬齢を重ね、最後には干からびた老人になってしまうのではないかというものである。一抹の不安ではあるが、何だかとても現実味のある不安なのである。

 定年ものの本には、定年後の不安は「健康」「お金」「生きがい」だと書いてある。確かにそうだと思うが、だからどうしろというのか。件の本には、その解消法を色々と実例を挙げ書いてあったが、俺にとっては「何をいまさら。」と諦めの方が先に立つ。だから、話が全く前に進まない。俺は、「健康」には気を付けているつもりである。しかし、いつ何時病気になるか分からないといった不安が常に付きまとっている。だから、健康診断を受けて病気だと言われるのが嫌で、人間ドックを受けるのをやめてしまった。「お金」については本当にどうしようもない。定年前のような収入は望めず、年金も「えっ、たったのこれだけ。」と驚愕する位の額である。しかし、その限られた収入で生活しなくてはならない。巷では、老後の資産形成などと吹聴されているが、俺にはその資産が無いので話にならない。定年後の「お金」は、減りこそすれ増えることはないのである。「生きがい」については、人それぞれで千差万別である。何か「生きがい」をもって定年後を過ごしている人は素晴らしいとは思うが、俺は「生きがい」を見つけ出す方法をいまだに知らない。人から「生きがいは何ですか。」と問われたら、「無い。」としか答えようがないのである。だから、俺は定年後の不安を何一つ解消できないのである。やはり、俺は馬齢を重ね干からびた老人となって最後は朽ち果ててしまうということなのであろうか。どうしようもない糞ジジイである。

「定年後は、目的をもって生活している人ほど生き生きして輝いている。」とものの本にはよく書いてある。だが、そのような人は少数派である。俺の知る限りの定年退職者は(無職は別として)、職場は変われど定年前と何ら変わらない日々を送っており、文句や愚痴も現役時代と変わりなく噴出している。趣味や生きがいを昇華させ生業とした者など俺の周りには何処を探してもいない。俺を含め彼等は、何も変わらない日々を粛々と生きており、そして歳を重ねているのである。

 定年とは、人生の節目ではある。しかし、若いころの進学や就職や転職といった人生の節目とは、その意味合いが違う。定年とは、いつ来るか判からない人生の終焉に向かって生きていくことの覚悟が求められる節目である。進学や就職や転職は、将来に向けての希望や期待がある。しかし、人生の終焉に向かっての節目である定年には、何処にその様な希望や期待などあろうか。ただ一日一日を何事もなく過ごすことが出来ればそれで十分である。この歳になって「目的をもって生きる」など面倒臭くてとても出来ないし、そんな目的は持たない方がかえって気楽でいい。その方が、精神的にも経済的にもリスクが少なく、ストレスもたまらない。やはり、何も考えずに「徒然なるままに日暮し」が一番いいという結論に達したのである。のんべんだらりと「何もしないぐうたらな日々」を過ごし馬齢を重ねていく事も、ある意味、定年後の人生だと思うに至り、周囲からの手厳しい批判を受けつつも、再就職した職場もあっさりと辞めてしまったのである。