英語

 駅のホームの事である。出会い頭に人とぶつかりそうになった。その人は、スーツを着た白人男性であった。コリン・ファレルに似たイケメンである。俺は英語が全く話せないが、咄嗟に「ソウリー」と言った。その人が英語圏の人かどうか分からなかったが、白人を見ると英語を話すという先入観があったからである。その人は、「あっ、どうもすみません。」と完璧な日本語で返してきた。しかし、残念ながらその後の会話は無かった。

 俺の世代は、外国人のことを「外人」と呼び、それは総じて白人のことであった。東洋系の人間はその中に入っていない。俺は子供の頃、流暢に英語を話す日本人を見て本当に恰好良いと思っていた。自分もこのように英語が話せるようになれたらなあと思っていたのである。だから、中学生になって英語の授業が始まるのを楽しみにしていた。しかし、今覚えている英語と言えば、I have an apple. This is a pen. I am a boy.くらいである。アメリカ人にI have an apple. This is a pen. I am a boy.と言ったところで、この人は何を言っているのだろうと不思議がられるのが落ちである。

 言葉と言うものは声を発しての意思疎通手段である。だから最初は、挨拶や簡単な自己紹介のようなものでもいいから会話に結び付く生きた英語を習いたかったのである。それと不幸なことに、俺が習った英語教師の発音が凄まじかった。「アイハブアンアップル、ジスイズアペン、アイアムアボーイ」と言うのである。日本語の発音である。しかし、それが英語の発音だと信じてしまった。英語教材のレコードを聞いたときI have an apple.がアイハブアンアップルではなくアイヘェヴアナポーと聞こえ、アナポーとは何ぞや、はっきりアンアップルと言わんかと思ったのである。その当時の英語教育は、an appleはあくまでアンアップルであり、それは「一つのリンゴ」であるという事を理解すればいいと言ったものであった(そんな気がする)。その後、俺は受験英語へと突入して行くのである。学校では、聞く話すなんか受験には全く必要ない、読み書きが出来ればそれでいいいと言った具合である。それ以来、英語がさっぱり分からなくり大嫌いになった。今思うと、中学校で初めて英語に接した時に、I have an apple.はアイハブアンアップルではなくアイヘェヴアナポーと教えてもらったならば、英語に対する認識が全く変わったのではないかと思うのである。

 ジョン万次郎が、聞いたままの英語をそのままカタカナで表しているものがあるが、それがとても面白い。例えば、America はメリカ、catはキャア、 nightはナイ、 girlはゲエル、waterはワラ、 railroadはレーローと言った具合で、極めつけは、What time is it now?でホッタイモイジルナ、つまり「掘った芋いじるな」である。これが意外とネイティブには通じるらしい。ジョン万次郎は、幼少期に漢文などの学識を身に付けていなかったため、口頭での通訳には適していたが翻訳となると駄目だったそうである。しかし、俺に言わせてもらえばそれでいいのである。言葉とは声を発して意思疎通するものである。俺はアメリカ人と楽しく会話がしたかったのである。会話をしながら、「ハハーン」とか「フフーン」とか相槌を打ちたかったのである。筆談などするつもりは毛頭ないのである。エルヴィス・プレスリーのハウンドドッグの歌い初めの部分You ain’t nothin’ but a hound dogを「所以(ゆえん)夏原ハンドッッ」と歌っても結構恰好良いのである。

 今でも英語が話せたらどんなに楽しいかと思う事がよくある。しかし、中学時代に受けた英語災難、すなわちカタカナ英語が脳裏にこびり付いているため、ネイティブの言っていることがさっぱり聞き取れないし、ネイティブの発音を真似ることが全く出来ない。英文を読むことは辞書片手に何とか出来るが、それでは暗号読解と何ら変わるところはなく、言葉ではない。当時の文部省に「どうしてくれるんだ。俺の夢をよくも潰してくれたな。」と言いたいところであるが、もう後の祭りである。かくして、ブルックリン訛りのアメリカ英語でニューヨーカーと恰好良く会話するという俺の夢は、完全に瓦解したのである。

忘れ物

 メモ帳を落としてしまった。何処で落としたのか皆目見当がつかない。色々と探してみたがとうとう見つからなかった。メモ帳には大したことは書いてなかったが、メモ帳を落としたという事に腹が立って仕方がないのである。以前は、所持品を落とすようなことは絶対になかったが、最近は物が無くなったり忘れ物をする事がよくある。人は加齢が原因と言いうが、それだけは絶対に言われたくないのである。

 俺の友人にこんな男がいる。その男は、ある省庁の国家公務員であったが、奴と酒を飲んでいると、こんな話を始めた。それは20年ほど前に、奴が東京に出張した時の話である。出張の内容は、詳しくは話さなかったが、奴が言うにはある重要な国家機密の入ったジュラルミンケースを東京の中央官庁に運び、ある処理をしてまた持って帰るという出張であったらしい。一泊二日の出張で宿泊はホテルであったそうだが、その国家機密の入ったジュラルミンケースをホテルには持って行くことは禁止されており、中央官庁の金庫に保管しなければならなかったらしい。しかし、それにはややこしい手続きがあって、奴はそれを面倒臭がり、ジュラルミンケースをホテルまで持って帰ったそうだ。奴が言うには、肌身離さず持っていれば無くすことはないだろうと思ったそうである。まぁ、手抜きをしたのである。夕食は一緒に出張した部下とホテルの近くにある居酒屋でするということになり、当然、飲酒を伴う夕食となった。奴は、ホテルに持ち帰ったジュラルミンケースをどうしようか悩んだが、もともと肌身離さずと手抜きをやった手前、居酒屋へ持って行くしかないと結論付けたらしい。酒も適度に入って夕食を済ませ、部下の分まで支払いをしたそうであるが、奴はその時の情景を死んでも忘れないと言っていた。その情景とは、居酒屋の支払いをするカウンターは客の前にカバンを置ける位の棚があり、そのカウンターの約7メーター後方に対面するようにエレベーターがあったそうである(奴は妙に詳細に説明する)。奴は、その国家機密が入っているであろうジュラルミンケースをカウンター前の棚に置き支払いをしていると、既に部下がエレベーターに乗り込んでドアを開けたままにしていた。奴はお釣りとレシートを受け取ると、直ぐさま180度反転してエレベーターに乗り込んだのである。ジュラルミンケースはそのまま置きっぱなしである。瞬間的にジュラルミンケースの存在が奴の頭から消滅してしまったのである。奴は、エレベーターに乗り込んでドアが閉まると何か足りないものを感じ、ジュラルミンケースを持っていないのに気付いた。エレベーターは既に動いている。奴は、血の気が引くという感覚がこれほど冷たく身体が凍り付くものだとは思わなかったそうだ。そして直ぐに次の階でエレベーターを降り、カウンターまで駆け戻ったところ、ジュラルミンケースはまだそこに存在していた。今度は、胸をなでおろすという感覚がこうまで腰が砕けるとは思いも知れなかったと言うのである。奴は、「もしケースがなくなっていれば、俺や俺の家族はもうこの世にいないかもしれない。」とマジな顔で言っていたが、もし本当に国家機密が入っていたのであるならば、奴はその管理を怠り、しかも酒を飲んでいた場所で無くすというとんでもない不祥事を起こしたことになり、最大の処分を受けてもおかしくなかったのである。それにより、奴は職を失い一家は路頭に迷うことになるのは想像に難くない。

 忘れ物や落し物というのは、歳を取るとやたらと多くなる。肌身離さず持っていたつもりがいつの間にか無くなっている。冒頭で書いたメモ帳くらいなら落としても問題ないだろうが(個人情報が書いてあれば別だが)、奴の様な忘れ物はしたくないものである。奴は、「誰にでも、瞬間的に物の存在が脳から消滅してしまう事はある。だが、消滅した物が何であるか、また、その後の成り行き次第では、人生の大きな分岐点となってしまう事もある。運の良い者と悪い者とがここで大きく分かれてくるのだ。」と神妙な面持ちで言う。つまり、運が良い者は何事もなくその後の人生を送るが、運の悪い者はそこで人生が終わってしまうという事である。奴は運の良い者というか本当に悪運の強い奴なのだろう。

それにしても、一体ジュラルミンケースには何が入っていたのだろうか。中身を知りたいものであるが、奴は定年退職した今でもそれについては口が裂けても言わない。

ルーキー

 ある日、JRに乗った時の事である。運転士が二人、運転室に乗り込んできた。一人は、小柄な40歳前後の男、もう一人は大柄で体格のいい25歳位の男である。この大柄な男は、両耳が潰れていて、柔道かレスリングかラグビーでもしている風である。どうも、この大柄な男はルーキーで、小柄な男がトレーナーらしき人物なのだろう。ルーキーは運転の準備を教えられたとおりに手順よくこなし、出発進行の指差し確認も滞りなく行い、電車は動き出した。しかし、ルーキーの動作は何処となくぎこちない。小柄な男がその一挙手一投足をつぶさに見ているので、ルーキーは緊張して動きが硬いのである。俺は、運転士なら誰でも通る道なのだろうと思いながら、その二人を見ていた。

 もともとrookieという言葉は、百年位前にアメリカで新兵や新任警察官のことを言っていたらしいが、印刷媒体で初めて使われたのは、「ジャングル・ブック」の作者であるラドヤード・キップリングが、1892年に出版した詩集で新兵のことをルーキーズと表現したのが始まりだそうだ。それが現在では、プロスポーツ選手の一年目をルーキーと呼び、一般社会では新人のことをルーキーと言っている。

 ルーキーで思い出したがことがある。それは、俺が幹部研修である部門に配属された時の事である。幹部研修生とはいえ、そこではある意味ルーキーである。そして、その部門には新人研修を終えた正真正銘のルーキーであるAとBもいた。ルーキーは朝一番に出勤して部屋の掃除から始めるのが慣わしとなっていた。俺もルーキーなので朝一番に出勤した。当然、AとBもいる。Aは床掃除から机拭き、ゴミ箱のゴミ集めなどよく動いていた。しかし、BはAが掃除をするのをいいことに、自分は平然と新聞を広げて読んでいるのである。朝の朝礼が終わると業務開始となる。しかし、ルーキーは何をしていいのか分かららない。ベテラン達はそれぞれの仕事に忙殺されて、ルーキーを指導するような余裕は全くないのである。その時代はトレーナーといった気の利いた者はおらず、仕事を覚えたかったら自分でベテラン達に聞いて自分でやらないといけなかった。そして、失敗すると厳しい叱責にあうという時代であった。ぼーっとして何もしないでいると「駄目な奴」とレッテルを貼られるので、何か動いていないといけないのである。だから最初は、雑用が主な業務となってくる。

 ある日、その部門のトップに来客があった。当然、お茶出しはルーキーの仕事である。俺は、給湯室に入りお茶を出す用意をしていた。すると、珍しくBも給湯室に入って来たのである。しかし、俺がお茶の用意をしているのを見ると、「ふぅーん」と言ったように首を縦に振り、そこから出て行ったのでる。Bは新卒で配属間もないド新人である。俺はこのBよりも実務経験では12年も先輩で、役職も上である。俺はムカッときたが、そこへAが入ってきて、「私がしますので、部屋に戻っていて下さい。」と言って俺から茶ずつを取り上げた。以後、この二人の仕事ぶりを観察してみたが、Aは部屋のなかを尻軽く動いているが、Bは机に座ったまま引き出しを開けたり閉めたりして何をしているのか分からない。そうした状況が暫く続くと、Aは先輩や上司から少しずつ仕事を教えてもらうようになり、更に仕事を任されるまでになった。Bはというと、相変わらず机に座ったままで何もしていないし、先輩達は声も掛けない。その後、俺の幹部研修も終わりその部門を離れたのであるが、数年後、Aは昇進して違う部門へと異動になり、Bは今でいうパワハラを受け辞職した。

 今の時代ではどうか分からないが、俺の新人時代は、とにかく尻軽く動かないと上司や先輩達に顔を覚えてもらえなかった。何でもいいからちょこちょこと動いて声を出すのである。じっとしていては「駄目な奴」のレッテルを直ぐに貼られてしまう。一度そのようなレッテルを貼られたら、なかなか剥がすのに苦労するのである。俺が先輩から教わった事に、新人は何を言われても「はい」とだけ応えて動けという事であった。質問は一切無しである。今なら、パワハラだ、モラハラだ、いじめだと問題になりそうだが、当時はそれが普通であった。しかしながら、こういった環境もお互いの絆を深めた部分があり、人間関係の構築に役に立ったことは否めないのである。そして、新人時代の経験が礎となって人生を歩んできたことも事実なのである。定年退職した今でも、ルーキー時代の経験が精神的基礎を築いているのは確かなのである。

…て言うか男

 一緒に働いていた男にこんな男がいた。その男は、俺よりも三歳年上でひょろっとした身体で目が細くヒョウタンみたいな顔に銀縁眼鏡を掛けていた。腰をやや右前に傾斜して歩く姿は、調子のいい詐欺師のようであった。

 俺は、この男と話すのが大嫌いであった。俺から話し掛けることは絶対にないのであるが、何故かこの男は俺に話し掛けてくるのである。適当にあしらってはいるが、どうしてもこの男との会話が嫌になるのである。何故嫌になるのか、この男との会話をいくつか紹介してみよう。

    (男) 昨日のテレビで放送していた映画、観ましたか。

    (俺) 観ました。なかなか面白い映画でしたね。

    (男) て言うか、単に面白いというよりも脚本が良かったですね。

というやり取りや、

    (男) 隣からお菓子を貰ったのですが、食べてみませんか。

    (俺) へぇー、このお菓子、甘さも控えめで美味しいですよね。

    (男) て言うか、甘さを控えてあるのは今の主流ですよ。

というやり取り。更に、

    (男) 昨日のソフトバンクの試合、どう思いましたか。

    (俺) やっぱり最後には、森の抑えが効きましたね。

    (男) て言うか、森が出て来るのは決まってたんですよ。

 一事が万事、こんな具合である。必ず、「て言うか」と相づちならぬ否定づちを打ってから話すのである。そして、「て言うか」を連発するのである。例えば、映画が面白かったという話での続きはこうだ。

    (俺) そうですね。脚本がしっかりしていないと、映画全体が抜けた感じになりま                 すね。

    (男) て言うか、抜けるというよりも締まらない感じですね。

    (俺) そうですか。しかし、ラストシーンはなかなか良かったと思いませんか。

    (男) て言うか、ラストシーンはこの映画の全てを語っているんですよ。

    (俺) ほう、どう語っているのですか。

    (男) て言うか、この映画はラストシーンが全てなんですよ。

    (俺) なるほど、この映画の主張がラストシーンにあるということですね。

    (男) て言うか、この映画の結論がラストシーンにあるわけですよ。

と、こんな具合である。この男と話していると、段々腹が立ってきて殴り倒したくなるのである。

 会話をスムーズに行うためには、相手との同調や賛同の言葉を投げかけることが必要であるとある本に書いてあった。「へぇー」とか「そうですね」とか「なるほど」などの合いの手を打つことにより、相手も「自分の話をよく聴いてくれているんだ」と好感をもち、会話がスムーズに弾むということらしい。また「凄いですね」などの賞賛の言葉を使うのも効果的らしい。

 何だかそれを聞くと、俺も耳が痛い。よく家内から、「あなたは人を褒めることをしないし、ありがとうと言ったことがない。」と言われる。後輩からも、「先輩に何を言っても聞いてもらえませんので黙っていました。」などよく言われた。ひょっとして、俺も人と話す時にこの男の様な話し方をしているのではないかと思ってしまったのである。思えば今まで、相手の話は完全否定、自分の考えだけを押し通すような言動をしてきたような気がするのである。結局、この男と同じ穴の狢だったような気がする。いやそれ以上だったかもしれない。ならば、この男を反面教師として、気持ち良い会話が出来るようになりたいが、果たして出来るかどうか全く自信がない。とりあえず家内との会話で改善を試みようと思い、この前、「ありがとう」と言ってみた。すると家内は、「えっ!ありがとうって言うんだ!」と青天の霹靂の如く驚いた。その驚いた家内を見て俺も驚いたのである。やはり今までの俺の言動は、相当変なものであったことを物語るのである。それにしても、家内は今までよく我慢してきたものだと思った。この「て言うか男」を見て我が身を振り返り、今まで多くの人に不愉快な思いをさせたことに猛省したしだいである。

オートバイ

 自宅の近くに床屋がある。だから、髪が伸びると当然そこに行く。その床屋の主人は、俺と同世代で趣味が俺とよく似ている。先日、散髪に行った時の事である。床屋の主人とオートバイの話になった。しかし、話のネタとなるオートバイが40年以上も前の物ばかりで、最新型のオートバイの話は全く出てこない。至極当然のことで、俺も床屋の主人も今のオートバイ事情など全く知らないからである。「何だか古臭い話だなあ。」とお互い笑いながら話していたが、とても楽しい時間であった。(オートバイという言い方も実に古臭い)

 大学時代、俺の生活の大部分がオートバイと伴にあった。何処に行くにもオートバイで出かけたし、通学も当然オートバイであった。バイトも「バイク便」なるオートバイを使ったバイトをしていた。モーターサイクリストという月刊誌にオーナーレポートみたいな原稿を投稿して掲載されたこともあった。

   大学での授業が終わるとすぐさま行きつけのバイク屋に行った。そこはバイク野郎の溜まり場となっていたが、その中に悲劇の男がいた。当時、国内では排気量750cc未満のオートバイしか販売されておらず、それ以上のオートバイは全て輸入車であった。この悲劇の男は、排気量1062ccのホンダCB1100R(通称イレブンアールといった)という輸出専用のオートバイをわざわざ逆輸入して購入した。当時、200万円以上(今は中古車市場で700~800万円位するそうだ)したそうである。奴は通関手続きを済ませて横浜から意気揚々とピカピカのイレブンアールを軽トラに積んでバイク屋にやって来た。新車登録をしなくてはならないが、やはりモノがあれば早く乗りたくなるのが心情である。他のオートバイのナンバーを付けて、早速エンジンを始動した。駿馬の雄叫びの如くそのエキゾーストノートは小気味よく吠えた。奴は慣らし運転もせずに、いきなりバイク屋の前の道をフルスロットルで駆っ飛んで行った。しかし、500メーター位走ったところで、中央分離帯に乗り上げ信号柱に激突してしまったのである。哀れにもイレブンアールのフレームはひん曲がり全損状態となってしまった。俺達は一目散に軽トラで駆けつけ、ぐしゃぐしゃになったイレブンアールだけを積みバイク屋へと戻った。奴は、とぼとぼと歩いて戻ってきたが、不思議に怪我一つしていなかった。イレブンアールはエンジンだけが形を留めていた。奴はそれを見て、「イレブンアールと形がよく似たCB750Fにそのエンジンが乗らないか。」と呟いたのである。しかし、マウントの位置が全く違っていて、あえなくその浅はかな考えは水泡に帰したのである。かくして、全走行距離500メーターのHONDA CB1100Rは、渋い黒色のエンジンだけを残し、赤白のフルカウリングに包まれたその雄姿は写真のみが伝えるだけとなったのである。

   そういったバイク野郎が集まるバイク屋には、自然発生的にツーリングチーム(サーキットでのレースにも参加していた)が存在した。モーターサイクリストにも紹介されたこともあるツーリングチームで、俺もそこに名を連ねていた。しかし、ここのツーリングが尋常ではなかった。奥多摩有料道路や箱根七曲などにバイク数十台で行くのだが、馬鹿じゃないのと思うぐらいのオーバースピードで駆っ飛んで行くのである。常磐自動車道では全車オーバー200キロで走った。そんな出鱈目なツーリングである。毎回、転倒する者が出て、バイクは全損、本人は怪我で入院といった事態が必ず起こるのである。今思うと本当に無茶苦茶な事を何の躊躇いもなくしていたものだと驚愕するばかりである。

 数年前に、知人から古いホンダの750ccオートバイを譲り受けた。輸出専用車で国内販売が僅か750台位しかないレア物のオートバイであった。俺は久々のオートバイで気分も高揚し、ライダージャケットやブーツも購入して意気揚々と跨ったのである。しかし、どうも昔のように使いこなせない。特に、思ったように止まることが出来ないのである。何回も車とぶつかりそうになった。やはり加齢による運動能力の低下からくるものであろうか、身の危険を感じた俺は止む無くオートバイを降りる決心をしたのであった。

 大学時代のオートバイ生活を思い出すと本当に懐かしく楽しい。春風を受けて走る爽快感は至上の幸福感に包まれたし、膝パッドを擦りながらハングオンという姿勢でコーナーを攻める時の感覚は射精にも匹敵する快感であった。しかし、その快感を再び味わいたいという欲望に駆られるも気力も体力も若い頃の半分以下になっている現在の俺は、気持ちだけが空回りするただのジジイなのである。

 「昔はよかったなあ。」

と床屋の主人が放った一言に、俺は完全に同意してしまったのである。

いけ好かない奴

 職場で朝の始業前の事であった。俺は仲のいい同僚とあるスポーツの話をしていた。そこに奴が出勤してきた。奴は俺達の話をちょっと聞くや否やいきなり話に割り込んできたのである。その割り込み方が実に気にくわない。奴は、「それは違うな。」と俺達の会話を引き裂くように言い放ち、尋ねもしないのに自分の意見を主張し始めたのである。せっかく二人で気持ちよく話していたのに突然の横やりで、俺は胸糞が悪くなったので同僚には悪かったが話すのを止めた。しかし、奴は何食わぬ顔で自分の浅薄な考えを延々と同僚に話しているのである。あまりにもくどくどと御託を並べるので俺はついに、「本当にそれをやったことがあるのか。それじゃここで実際にやって見せてくれ。」と言ったところ、今は出来ないと逃げの姿勢に入ったのである。このタイプに見られる典型的なパターンである。自分の化けの皮が剝がれそうになると、途端に逃げの体制に入るのである。俺は徹底的にたたみ込んでやろうかと思ったが始業時間が来てしまったので出来なかった。本当にいけ好かない奴である。  

 小学生の頃、こんな奴がいた。奴は東京からの転校生で、父親は何処かの省庁のお偉いさんだったと思う。奴は学校での成績が良いというわけでもなく運動が出来るというわけでもなかったが、父親の職業を鼻に掛けて色々と威張り散らし、自分は凄いと自慢するのである。正にいけ好かない奴の典型で、俺は奴が大嫌いであった。

 ある日、郊外授業で海に行った時の事である。俺は小学生の頃、ある離島に住んでいたので小学校も海に近かった。当然、そこにいる小学生達は海に囲まれた自然の中で育っているので、泳ぎは皆上手かった。郊外授業の内容は泳ぎに関するものではなかったが、夏休みも近く暑かったので、先生は、「よし、今日は暑いので男子は泳いでもいいぞ。」と言ったのである。男子達は皆大喜びで裸になり防波堤から次々に海に飛び込んでいった。今では考えられない事であるが、当時はそれが普通であった。俺達は沖(沖といっても防波堤から百メーター位の距離である)のブイまで競争したのだが、そこには東京から転校してきた奴の姿はなかった。奴は俺達によく、「俺は五十メートルを〇〇秒で泳げる。凄いだろう。」と言っていたので、てっきり一緒に泳いできたと思ったが、奴は防波堤の上で女子達に紛れて隠れるように立っていた。俺達は早く海に飛び込めと促したのであるが、全く飛び込もうとしない。何人かが防波堤に戻り奴を海に突き落とそうとした時、先生が慌ててそれを制止した。奴は恐怖のあまり大声で泣きじゃくり、その声は沖にいる俺達にも聞こえた。もうお分かりだと思うが、奴は金槌であったという落ちである。しかし、話はここで終わらない。この後、奴にとっては地獄のような日々が始まったのである。何故ならば、当然の如く俺達に相当いじめられたからである。そうして、俺達にいじめられてぼろぼろになった奴は、また東京に戻って行った。

 いけ好かない奴は大抵が偉そうにしている。しかし、そんな奴の化けの皮が剝がされた時は、本当に惨めである。俺は、今までこんな奴を結構見てきた。東京から来た奴は、俺が見たいけ好かない奴の最初であったが、その化けの皮が剥がされた時の惨めさとその後の地獄のような日々は、俺の心に強烈な印象となって焼き付いたのである。その時俺は、こんな奴には絶対になりたくないと思ったし、こんな惨めな思いは絶対にしないようにしようと心に誓ったのでる。ある意味、奴は俺の人生において、生きて行く行動の指針を一つ与えてくれた恩人なのかもしれない。

憧れの職業

 朝起きて、仕事に行く必要が無くなり、毎日余裕をかましている。もともと、労働に対する意欲が無く、自分がこれ程非生産的な人間だったとは思いもしなかった。しかし、無職ということは労働対価が全く無くなるということである。問題はどうやって食っていくかなのだが、やはり少ない年金に頼るしかないのである。当たり前の話である。「年金だけでも暮らせます」という本があったが、年金だけで暮らすには節約しかないということらしい。至極当然である。

家内は、「仕事は続けろ。」と喧しく言うが、全く聞く耳を持たない。無収入になっても何とか食っている。案外、生きていけそうなのである。そうなってしまうと今度は死ぬまでボーッとしていたいという衝動に駆られてしまう。人からは、「やりがいのある仕事を見つけろ。」と言われるが、そんなことをする気は毛頭ないし、はっきり言っていらん世話である。俺は好きなようにしたいのである。つまり、俺は好きな時に起きて好きな時に寝る、好きな時に飯を食って好きな時に糞をする。何かしたいときにしか動かないという生活がしたいのである。「死ぬまでボーッと」は、今の俺にとっては信念であるし、憧れていたライフスタイルでもある。それが、やっと実現したのである。

 憧れといえば、子供の頃、大人になったら何になりたいかと聞かれた時、俺はバスの運転手とよく答えていた。他の子はパイロットだの野球選手だの言っていたが、俺はバスの運転手だった。両親は、さぞかし夢のない子だと思ったかもしれないが、俺はバスの運転手になりたかったのである。バスの運転手は俺の憧れの職業であった。定年退職前に、俺は大型二種免許を取った。職場でその免許が必要であったかというと、その必要は全くなかった。しかし、子供の頃の夢を少しでも掴んでみたいと思ったので、必要もない無駄な免許を取ったのである。その頃の俺は、日々の生活や仕事に振り回されて身動きが取れず、子供の頃の憧れを実現させるなど到底出来なかったので、せめて少しでもその夢を掴みたいと思い免許を取得したのである。

 今、バスの運転手は常時募集している。だから、応募すれば即採用となるだろう。子供の頃の夢を実現するチャンスかもしれない。しかし、バス運転手は安月給でしかも超ハードワークだと聞く。「死ぬまでボーッと」を標榜し実践している俺には、そんな仕事が務まるはずがない。はなから諦めている。夢を実現したいとは、思うだけで行動に移すということは全くしないのでる。つまり、そこには「夢無し・やる気無し・金無し」の鄙びたジジイが、何もせずにボーッとしているだけなのである。

 子供達の将来の自分像というものは、夢や希望に満ちていてとても羨ましい。インターネットのあるサイトに、将来なりたい職業ランキングというのが載っていた。その中で小学生男子のなりたいランキングの一位が野球選手、二位がサッカー選手だそうだ。そりゃそうだろう、男の子にとっては憧れの的である。三位は警察官だそうだ。白バイや刑事に憧れるのであろう。四位は何と電車・バス・車の運転手ということである。俺の子供の頃になりたかった職業が、なんと第四位に入っているのである。俺もまんざら捨てたものではないと妙な自信を持ちながらも、屍一歩手前の俺にとっては、「バスの運転手」というものが、もはや手の届かない光り輝く職業として眩しく映るだけなのである。